2010年9月1日水曜日

びんさん②

9/1 友達のドア

先ず、この投稿は業界関係者以外の方には何を言っているやら解かりずらいと思われますので、閲覧いただくことは結構ですが、長文につき、飽きると思われますので、スルーして下さい。

久しぶりに、びんさんと会い、昨今の児童養護論を語り合いましたので記しておきたいと思います。
 全くの個人見解・手記でありますので、言葉づかいが荒い事があります。あしからず。また、この投稿は児童養護のあり方を否定するものではありません事を御了解ください。


  -ニュース・新聞報道でも珍しくなくなった児童虐待について 
                           そして従事者のあり方とは-


 我々は平成4年から児童養護の従事者と成った。何でかって?その時はよく解からず薦められるがままに従事したのだが、今思えば子どもたちの生活ぶりに、
 否、自分の成育歴に疑問や不信(言うなれば自尊心の脆弱性)を感じ、時流(バブル崩壊・少子化)に乗って入職したのだと思う。

 今や我々はこの業界ではベテランの域である。この業界では3年も経つと中堅である。「石の上にも3年」とあるから、良いのであろうが、実際は従事者は皆、疲弊している。

 恐らく2段腹を引きずりながら、腰痛に堪えながらも酒を煽っては、酔いで誤魔化し誤魔化し、子どもたちと向き合うことから逃げられずに、日々を過ごしているのは我々世代で最終であろう。今は、やれ社会福祉士だとか、社協だとか、それでも安定志向足らん現況は、この国が、世界が不景気だからなのか?そうではなさそうなのであるが、明確な答えが見つからないまま、時は、無情にも子どもを未成年に、未成人へと変える。とにかく日本には子どもたちを支える術が足りない。

 もう何百人もの子どもたちを見守り、巣立たせてきた。これも否、従事者たる都合を押しつけて社会に放り出した事もある。

 このことは今では「被措置児童に係わる児童虐待」の放任にあたると思われるが、当時は身寄りのない子どもを、遠方まで連れて行き、幾ばくかの金を持たせ「頑張れよ!」の一言で置き去りにする事もあった。それしか方法が無かったのである。
 説明不足で「そんなひどい事を!」と苦言を呈される方が居ることを承知で書いているが、到底この投稿で説明しきれないので、賢明なる読者の想像と理解に委ねたい。
 正当化するわけではないが、決して無責任で、悪意に満ち満ちていない、ということを了解いただきたい。

 さて、重い問題提起から始めてしまったが、昨今の従事者たる在り様は、全く釈然としないものである。
 これでも、10年も前には頭から湯気を上げながら、夜な夜な語り合ったものだが、現状は緩やかに推移しているものの、その緩やかさにさえ従事者は追いつくことが出来ない。以前は児童養護の従事者と言えば、年齢不詳で、亀仙人か年齢よりも若く見られる事が多かったかと思うが、先に言った通り、疲弊し、分厚い影を足枷(あしかせ)のごとく引きずっている。 皆、足取りが重そうである。

 おそらく、多くの従事者は落胆とあきらめの中で、日々を過ごしているのだろう。子どもと言う名の、心身ともにボロボロにされた、縫いぐるみを横に置いて、繕う事が出来ずに、うな垂れているようなものだ。
 「実るほど頭を垂れる」の喩があるが、我々は明らかにそれでは無く、単に頭が重いのだ。

果たして、こんな従事者で子どもたちの育ちに係わって良いものなのだろうか。

 勿論、言うまでもないが、児童養護は現に注目されつつも、こんな変遷を辿ってきたのである。従事者の中には「私が辞めれば、この施設が良くなるのかも」との思いに辞職していった先輩諸氏もいる。

 びんさんの所属しているバンドのテーゼには「人は人によってしか癒されない」というセンテンスがある。その通りだと思う。しかし、その一方で「人は人によって傷つけられる」ことに端を発しているのであろうから。そこに手を入れなければ根本解決とは成らず、同道巡りの虐待再生工場と言われても、反論のしようが無い。

 それでも我々が従事者から降りられない理由

それは「子どもたちから受け取った思いを、報われるものにしたい」からだ。
 
 何をカッコイイい事をと罵しられることも必至の上で、バカまじめで己に言い聞かせ、奮い立っているのだ。こんな惨めな思いをする位ならと思わないでもない、中には子どもたちによって心身に致命傷を負って退職を余儀なくされた若者も多く知っている。劣悪勤務形態・低給料に、それでも従事者たらんと欲するのは、

「子どもたちと出会ってしまった事」に他ならない。

 知らなければ良かったと思う事は、人生では幾つもあると思うが、かなりの上位に児童養護はランキングしていると思う。「なかなか出来る事じゃないよね。偉いよね。」と労をねぎらわれる方も少なくないが、本当に「いやー、まだまだなんです。」と言わざるを得ないジレンマに日々苛まされるのだ。 

 なんという現実か。これが現実だ。夢であるなら、いい加減にしてほしい。

未だ我々は投げ出さず、あきらめ切れてもいないと思っているのだが、我々に明日はあるのか?

それは創造することしかないのであろうが、我々の存在はあまりにも小さすぎる。目の前にいる子どもたちでさえも、取りこぼす体たらくである。

びんさんは『ダラダラとやることも福祉だと思う』と言っていた。   

 そうだとも思うし、聞き様によっては誤解を生じやすいとも感じた。「ダラダラ」とは際限なく続く様であるので「これで終わり」が無いということでは合っているし、気の持ち様として「焦らず」ということであろう。また「在り続ける」ことを請け負うとも言えそうである。

 映画『21世紀少年』でケンジが口ずさむメロディーにフクベエこと勝又君が歌詞を付けるのだが、それも『ぐーだらら すーだらら』といったフレーズであった。
 いつの世も『ええじゃないか』ではないが、意味を見いだせずに、混沌とした中でも在り続けようとする、ヒトの生(性:さが)に押し続けられる、という事なのだろう。

 
これからも私は児童養護の従事者として、そのことに眼を背けずに在りたい。

 報われない、1人ひとりの思いを、限りあるリュックに背負いながら。

 

 

1 件のコメント:

びん さんのコメント...

そうだね、意味を見いだせないことにあきらめずにいこう、無力であることをごまかさずに行こう、そしてあがいていてもいつか辿り着くことを夢見て行こう、お互いに!!